芝川ビル「建物語」

芝蘭社家政学園の思い出 2

戦前、芝川ビルに開校していた花嫁学校「芝蘭社家政学園」。先日、ご縁があって卒業生の方にヒヤリングをさせていただくことができました。
お話をお伺いした方は、昭和16(1941)年4月から昭和18(1943)年3月までの2年間芝蘭社に在学されました。毎日 お着物に帯をお太鼓に締め、風呂敷包みを抱えて、バスや電車を乗り継いで通学しておられたそうです。
女学校を卒業する際、お母様より女子専門学校への進学を勧められますが、厳しい学校生活はもうこりごりと言ったところ、それならと代わりに入学を命じられたのが芝蘭社でした。規則が多く厳しかった女学校と異なり、芝蘭社はとても自由な校風で、先生も皆さんお優しくて、先生風を吹かせるような方はいらっしゃらなかったのだとか。
授業は西洋・支那料理、割烹、茶道(抹茶)、和裁、生花を受講されますが、中でも一番印象に残っているのが西洋・支那料理でした。
西洋・支那料理の授業を担当されたのは外国船でコックさんを務めた経験もある吉浦秀吉先生*1)。授業は全員で実習をした後、皆さんでお料理をいただくというスタイルで、先生のご指導の下、外国製の調理器具を使って作り、洋食器に盛り付け、銀製のカトラリーでいただくお料理は 新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)のレストランにも劣らない美味だったそうです。特に深いお鍋で大きなお肉の塊を煮てとるコンソメスープは本当においしかったのだとか。
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こちらが芝蘭社の西洋・支那料理の教科書。卒業後も大切にとっておられたものです。
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目次からもおわかりいただけるように、一家の主婦が作る家庭料理のレベルを遥かに超えたかなり本格的な内容です。
ご結婚後 子供さん達に当時まだ珍しかったカスタードクリームやプリン、ブラウンソースなどを時々手作りしていたとおっしゃっておられましたが、こういったお料理は日常的に作るものではなく、また芝蘭社ではプロの料理人の育成を目指した訳でもありません。それなのに何故ここまでレベルの高い授業が行われたのでしょうか。
卒業生の方は、芝蘭社在学中に本格的な西洋料理を学んだことで、フランス料理などを食べた際にそのお料理がどのように作られたのかがわかるようになったとおっしゃっておられましたが、芝蘭社には”一流”の先生による”本物”の授業を通して真の教養を身につけて欲しいとの願いがあったのかも知れません。
さて、西洋・支那料理と並んで思い出に残っておられるのが、稲田宗朝先生*2)による茶道(裏千家)の授業でした。女学校時代から学んでいた茶道はお好きだったけれど、当時はとにかく遊びたい盛りで、お茶とお菓子をいただいたらすぐに授業を抜け出して、大阪ガスビルへフランス映画を見に行ったり、梅田のデパートへ遊びに行ったりしていたとお話下さいましたが、茶道は芝蘭社卒業後も稲田先生の教場へ通って続けられ、最終的にはご自身も先生となられて 現在もお弟子さんに教えておられます。これも芝蘭社での稲田先生との出会いがあったからこそ。そのご縁が今につながっているとおっしゃっておられました。

昭和18(1943)年、戦争の影響で芝蘭社はついに閉校します。生徒には卒業まで閉校のことは知らされず、卒業後に「芝蘭社が潰された」という噂で閉校を知ったそうです。
芝蘭社の閉校については、この年に女子挺身隊が創設されたことも関係があったのかも知れないとのことですが、卒業間際には着物が目立つため袴で通学していたとは言え、戦時中のこと、しばしば「贅沢学校」と言われた芝蘭社は、戦局の悪化に伴い その継続が困難となったのでしょう。
考えてみれば、戦時中のもののない時代にお料理の授業で用いる食材など授業のための物資をよく準備していたものです。芝蘭社のお月謝は女学校よりも高かったということですが、それでも学校の費用が全てまかなえる訳ではなく、園主の芝川又四郎は、損失は自分が負担する考えだったと述べています。こういったことを考え合わせると、寧ろ昭和18年まで芝蘭社が存続したことがすごいことだったと言えるのかも知れません。

芝川又四郎は、教育について以下のように述べています。
「教育というものは、才能を伸ばすものでなければいけない。文部省の専門学校令による三年制度の学校ということにしたら、教課も時間もきまっています。きらいな学科でも習わねばならぬことになって、女学校の時代に好きもきらいも言わずに詰め込まれて、やれやれと思っているにもかかわらず、またきらいな学科を詰め込むというのはよくない。好きなものなら幾ら好きでもよい。たとえば習字が好きなら、九時に来て三時までずっと習字ばかりやっていてもよい。習字の才能があるからこそ好きなので、それをどこまでも伸ばす。英語で教育をエデュケーションといいますが、そのエデュースとは、もともと才能を伸ばすということです。」
芝蘭社は本当に自由な校風であったと卒業生の皆さんが口を揃えておっしゃいます。授業が選択性であり、その出席が各自の自主性に任されたのも、単にお嬢さん学校だからと生徒を甘やかしたのではなく、上述のような又四郎の教育方針を反映したものだったのでしょう。
卒業生の方にお話を伺っていると、一流の先生方による本物の授業を行ったこの時代の文化度の高さをひしひしと感じます。戦時中とは言え、昭和18年は古き良き日本の余裕とでも言うものが残っていた最後の時代だったのかも知れません。
*1)西洋・支那料理教科書の巻頭には、以下のように吉浦先生の経歴が紹介されています。
「著者、吉浦先生は四十年以前、日本最古のホテル長崎のベルビウホテルでマダム・ハルマンに就いて仏蘭西料理の研究を始められ、其の後、米国軍用船トウマス号に乗組んで修業したり、上海、広東等では支那料理を、更に印度とか仏蘭西、白牙義(※筆者注:ベルギー(白耳義)の誤りか?)でも夫々実地に研鑽して、凡そ洋の東西の料理法の真髄を修められている方であります。」
*2)稲田宗朝先生は、裏千家の老分・稲田高月氏のご夫人。
※千島土地㈱では、現在、芝蘭社家政学園の歴史を調査しています。芝蘭社の思い出についてお話いただけるという方や芝蘭社に関する資料をお持ちの方がおられましたら、メール又は06(6681)6456までご連絡下さい。 



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