芝川ビル「建物語」

金庫室の”秘宝”

前回ご紹介した芝川ビル地下の金庫室。
こちら、実は数年前までは物置代わりに利用されていました。
昨年、レストラン「リブ・ゴーシュ」さんがオープンするにあたり、同じフロアにある金庫室内もついでに整理・調査されることになったのですが、結局、皆が期待していた(?)「金めのもの」は見当たりませんでした。
そもそも、芝川家の事業(不動産運用)用であったこの金庫室は、戦前も”札束の山”というよりは、美術品や大切な帳簿といったものが主な収蔵品だったのではないかと想像しているのですが、大正年間の本店事務所の移転に伴い、”お宝”も移動したのでしょう・・・と心を鎮めていたところ、ふと目についた金庫の陰から発見されたのがこの木箱。
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こちら、ただの古い箱ではないのです。
よーく見てみると・・・
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“NIKKA WHISKY”の文字が!!
なんと、古い木箱に入ったニッカウイスキー1ダースだったのです。
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1920(大正9)年、ニッカウイスキー㈱の創業者・竹鶴政孝氏がリタ夫人と共にスコットランド留学から帰国した際、最初に住んだ帝塚山姫松の家の大家が、芝川ビルを建てた芝川又四郎でした。当時、又四郎自身もその近所に居を構えていたことから、又四郎の娘たちはリタ夫人より英会話を習っていたと言います。
こういった縁から、又四郎は加賀証券のオーナー・加賀正太郎氏らと共に、ニッカの前身・大日本果汁㈱の設立に出資することになります。
大日本果汁では、当初リンゴ汁(リンゴジュース)の製造を行っていましたが、1936(昭和11)年、遂にウイスキーの製造に乗り出します。
ウイスキーを製品化するまでには少なくとも3年の熟成期間が必要で、その製造には莫大な資力が必要なのですが、又四郎は株主としてウイスキー製造をささえ、1940(昭和15)年、遂にニッカの第一号ウイスキーが世に送り出されました。
この度、芝川ビル地下の金庫室より発見されたウイスキーは、この第一号ウイスキーに比べて「天使の分け前」(自然減少分のこと。素敵な呼び名ですね。)が少ないことから、その後に製造されたものと予想されます。
竹鶴政孝氏のご子息で、ニッカ相談役を務められた故・竹鶴威氏からも、「昭和25年頃のものだろう」とのお墨つきをいただきました。物のない時代に、1ダースも当時のままよく残っていたものだと驚いておられたそうです。
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現在、これらのウイスキーは北加賀屋の弊社事務所の1階に展示していますが、
来社されたお客様が展示品を食い入るように見つめておられる光景をしばしば目にします。
約60年近い年月、芝川ビルの地下室で熟成されたこのウイスキーは、
愛酒家の皆様の垂涎の的・・・・・・なのかも知れません。
■参考
「日本のウイスキーの父 竹鶴政孝物語」、田中孝道、アサヒビール株式会社、2002
「竹鶴リタ物語」、ニッカウヰスキー株式会社、1985
「ヒゲのウヰスキー誕生す」、川又一英、新潮社、1982
「琥珀色の夢を見る 竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語」、松尾秀助、PHP研究所、2004
「リタの鐘が鳴る 竹鶴リタの生涯」、早瀬利之、朝日ソノラマ、1995
「竹鶴物語」(NIKKA WHISKYホームページより)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)



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