芝川ビル「建物語」

【BEYOND100】発掘・芝川ビル物語
建築家・渡辺豊和氏

「発掘・芝川ビル物語」第一弾は、芝川ビルにご自身の事務所「渡辺豊和建築工房」を構えておられた建築家の渡辺豊和氏です。

渡辺 豊和(わたなべ とよかず)
建築家、作家
1983年秋田県仙北郡角館町生まれ。1961年、福井大学工学部建築学科卒業。中西六郎建築事務所、RIA建築総合研究所勤務を経て、1970年に独立し、「渡辺豊和アトリエ」を開所主宰(1972年に「渡辺豊和建築工房」に改称)。同時に藤田邦昭主宰の「都市問題経営研究所」で市街地再開発に携わる(1970-1972年)。1977年、「建築美」を創刊。1980年、京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)客員教授、翌年、同大教授就任(-2007年)。日本のポストモダンを代表する建築家のひとりである。
代表的な作品は、吉岡邸[1・1/2](1974)、テラスロマネスク桃山台(1977)、西脇市立古窯陶芸館(1982)、藤田邸[通称・神殿住居地球庵](1987)、龍神村民体育館(1987:日本建築学会賞作品賞を受賞)、対馬豊玉町文化の郷(1990)、秋田市体育館(1994)、加茂文化ホール(1994)など。
著書に『地底建築論』(1981)、『芸能としての建築』(1983)、『大和に眠る太陽の都』(1983)、『天の建築、地の住居』(1987)、『建築のマギ(魔術)』(2000)ほか多数。

Q.入居のきっかけについて
A.当時は北堀江に事務所を構えていましたが、構造家の川崎福則さんが芝川ビルに入居していて。僕の建物の構造(設計)を全部やってくれていましたから、「渡辺さん、もう芝川ビルに来てちょうだいよ。その方が便利がいいから」と言われて芝川ビルに移ることになり、当時空いていた4階(402号室)に入居しました。

Q.芝川ビルの印象は
A.芝川ビルは非常に良かったですよ。僕にとって一番印象の深い、面白いビルです。
F.L.ライトの弟子に遠藤新っているじゃないですか。彼は東京の人で、芝川ビルの設計は渋谷五郎さんですが、ライトの影響を受けているのは間違いないと思う。芝川ビルは魅力的な建築だったけど、僕は「僕の建物の方がずっと上だ」とは思っていた。申し訳ないけどね(笑)。
でも芝川ビルはわりと広くて使い勝手は良くてね。所員もそんなに多くなかったので、ひと部屋(402号室)だけ借りていましたが、その後、隣の部屋(401号室)も借りました(※)。部屋同士は繋がっていなかったけど、401号室は打ち合わせと、模型製作をする部屋として使用していました。階段も広くて緩やかでしたし、不便だと思ったことはないですね。


【増築部撤去前の芝川ビル4階平面図】
※渡辺氏は1987年に402号室に入居。1993年、隣室の401号室が空室となったことに伴い1999年5月末まで401号室も賃貸。その後、4階増築部分の解体工事のため、2006年1月末に206号室へ移動、2008年1月末に退去。

Q.当時の入居者について
A.建築関係の方はわりと多かったですね。山崎泰孝さんとは入れ替わりで入居しました。部屋は違いますが。今井得司さんは居間のような部屋を借りておられて。芝川家のご親戚だと聞きました(※)。地下を借りておられた久保田晃さんもご一緒でしたね。山崎さんも今井さんも久保田さんも、みんな坂倉建築研究所の方でした。
それから(建築)積算をやっていた内藤薫男さんも1階におられました。僕は川崎さんと内藤さんと組んで仕事をしていましたから、(全員が芝川ビルに事務所を構えていて)すごく便利が良かったです。
内藤さんは僕より10歳ほど年長でしたから、打ち合わせの時は、僕が4階から内藤さんの事務所(1階101号室)に下りて行きますって言うんですが、「いや、渡辺さん、僕が上がっていく!」って言って、絶対に僕の言うことを聞かないんだ。内藤さんとは現場に一緒に行ったり、色々しましたね。
久保田とは仲が良かったから、川崎さんと3人でよく京都に飲みに行ったなあ。大阪でも飲んだけど、川崎さんが京都に住んでいましたからね。
※今井氏の夫人は、芝川ビルの施主である芝川又四郎の姪

Q.芝川ビル周辺について
A.界隈にはわりと建築家の事務所が多かったですね。あの周辺は、古い建物が焼け残っていたんですよ。ほん近くに江戸時代の木造の建物も残っていました。僕はそうではなかったけど、建築家には意識して古い建物に入居した人も結構いたんじゃないかな。僕は川崎さんに誘われたのが理由だけど、いいビルだなと思ったから入ったことは確かです。
当時は周辺の建築設計事務所を全部知っていましたが、年をとって忘れてしまったなあ。僕は若い時に独立したこともあって、他の設計事務所に勤めている人との交流は殆どなかったですね。芝川ビルの建築家以外の入居者との付き合いもありませんでしたが、芝川ビルには税理士さんなど「士業」の方が割合多かったように記憶しています。

Q.芝川ビルでのお仕事
A.いつも決まった時間に来て、決まった時間に帰っていました。だいたい酒飲んで帰るから(笑)、朝は10:30頃かな。遅いですよ。(京都芸術短期)大学には週2日。3日の時もありましたが、あとは芝川ビルです。僕の代表作だと思っている(建築)作品は、ほとんど全部、芝川ビルにいた頃に建てたものです。龍神村や秋田の体育館、対馬(豊玉町文化の郷)も。それから本の執筆もほとんど芝川ビルでしていました。加嶋くん(※)にワープロで打ってもらったりしてね。あとは電車で書くこともありましたね。
※摂南大学理工学部建築学科の加嶋章博教授。1995年から1999年まで渡辺豊和建築工房に在籍。

Q.ご自身の設計された建物について
A.京都で設計したのは2件です。宇治と花背。小さい作品ですけどね。宇治は井上工務店といって、小さな工務店ですが、とても面白いビルですよ。花背は混構造の住宅です。木造が朽ち果ててもRCの部分が1000年残るという構想で、この考え方は龍神(龍神村民体育館)でも使いました。(コンクリート部分の)断面もコの字型になっていて、2階にもコンクリートを使っています。この頃、宮脇(檀)さんも混構造をやっていましたが、1階はコンクリートで2階は木造と上下を分けていました。宮脇さんとはそれなりに親しかったけど、僕に言わせるとあほやなあと思っていて。何でそんな単純なことやってるんだって。亡くなった人の悪口を言うのは何ですが、考えることが単純なんですよね。僕の方が圧倒的に複雑なものを考え出しているから。
自分の作品の中で一番気に入っているのは、豊玉(対馬市豊玉文化の郷)。その次が秋田市体育館。今でもよく使われています。住宅では「神殿住居地球庵」。あとは「おっぱいハウス」。そしてなくなりましたけれども「1・1/2」。その3つですね。
設計をする時、僕は概念から入ります。言葉から入る人間だから。「神殿住居地球庵」。まず名前から入るんです。常にそうですよ。「1・1/2」もそうです。診療所と住居で、診療所は(住居の)半分でいいというので「1・1/2」。全部言葉からです。こういう作り方をするのは、多分僕ひとりだけじゃないかと言われたことがあります。建物を見ていて、それが分かると言われるんですよ。作る時には、名前(概念)を決めて、そこから(建築の形に)下ろしていく。難しいものではなくて、「1・1/2」とか「神殿住居地球庵」とか、具体的なものです。こうして最初にひとつのルール(概念)を決めて、それを通していくという感じです。
建築を建てる時は、その地域の伝説や神話を探してきて、それを言葉に直して、空間にしていくという方法をとりました。特に公共建築はね。この方法を「共同幻想」と名付けましたけど。吉本隆明的なね。
「1・1/2」はなくなりましたが、施主が診療所をたたむ時に、美術館か何かにしたいから、買ってくれる人を見つけてくれませんかと言われたんですよ。でも僕にそういう能力はないからね。今考えると安藤(忠雄)さんに頼めば良かった。その時は、そういうことを頼むのは格好悪いと思っていたけど、僕の唯一の失敗だね。安藤さんに頼めば多分やってくれましたよ。あの人は親切だから。僕の至らないところですね。

A.施主との関係について
Q.施主が色々と要求してきたらね、僕は断るんですよ。要求しない人の仕事しかしません。僕は、自分のやりたいことしかしませんでした。そのために生きていましたからね。やりたくないことは一切やりませんでした。ですから、大小含めて生涯で30件ほどしか設計していませんよ。
最初から、要求しないでくれというようなことは言いませんが、相手が途中でああしてくれ、こうしてくれと言い始めるでしょ、そしたら「もう辞めます」って断るんですよ。それでもう二度と会わない。だんだん僕のやり方を知っている人だけが来るようになって、断るということもなくなりましたけどね、若い時は僕のこと知らないで来ますからね。でも徹底していましたよ。
だから他人の目からどう見えるかは別として、僕自身が自分の作品として欲求不満な建物ってないんですよ。いい、悪いというのは他人が言うことで、自分が言うことじゃない。でも僕自身の気持ちとしては納得している訳です。

Q.執筆活動について
A.(建築)設計と執筆を並行してやっていましたが、直接関係はないです。関係ないようにしていました。建築の本を書く時は、自分の建築について書いたりしましたが、そうでない本を書く時は建築から離れるようにしていました。ただ古代について書くにあたり、過去のことを推理する時は、建築家として空間を読み解く能力が役立ったと思います。
僕は2つの人生の柱を持っていて、はじめは建築家で、あとは物書きです。物書きは建築家ほど名は通りませんでしたが、30冊ほど本を出しました。今でも建築家の中では一番本を出しているんじゃないかと言われているそうです。
2008年に芝川ビルを退去した時は、奈良(の自宅)で物書きに徹しようと思って引っ込んだんです。それからもう5-6冊書きましたよ。建築でやりたいことは全部やっちゃった。これ以上の才能は僕にはないから。

Q.大阪について
A.大阪は非常に好きでした。差別がないから。僕は秋田県出身で、秋田弁でしょう?東京だと馬鹿にするんですね。でも大阪では一切ない。ちゃんと話を聞いてくれます。大阪の平等主義。だから安藤忠雄さんのような人が育ったんですね。これは本当に大阪の良さです。
もちろん、大阪に来たのは、大阪の建築事務所を紹介されたからというだけの偶然なんですが。でも、東京の大学を出て、長い間東京にいた親父は、東京は秋田人、東北人には向かないから大阪に行けって言っていました。言われた時は本気にしていなかったけどね。
当時は東京と大阪に事務所を構える設計事務所はありましたけれども、有名なのは坂倉事務所(坂倉建築研究所)とRIAでした。両方とも圧倒的に優秀な事務所ですからね。
僕が来た頃の大阪は本当に元気でした。最初は東京も大阪も焼け野原からの復興ですからね、変わらなかったですよ。大阪の元気がなくなったのは、バブルが崩壊してからくらいじゃないかな。
大阪の施主が、東京や他の都市の施主と違うと感じたことはありません。ずっと大阪にいて、そういうものだと思ってやっているからね。地方でも仕事をしましたが、大阪の施主が特別違うと感じたことはありませんよ。でも大阪の人がフランクなことは確かですね。
話は変わりますが、奈良もいいところですよ。何もしないでしょう。何もしないのがまたいいんですよ、奈良県にとってはね。変わらない方がいいですね。だから奈良も非常に気に入っています。

Q.奈良のお住まいについて
A.奈良に住むようになったのは簡単なことです。僕がまだRIAの大阪事務所にいた27-28歳頃に、家を建てて、そこで子育てをしようと思ったんですが、当時、RIAにいた年配の方がね、「渡辺君、家を探すなら僕が探してあげるから」と。どこに連れて行かれるかわからずについて行って、最初にここ(田原本)に案内されて、「ここ買え」って。すごくいい人だったし、すぐ買いました。実際に買ってみて良かったんですけど…(京都にも大阪にも)少し遠いけどね。
周りに古墳がたくさんあることを知ってはいましたが、そういうことを意識して住んだ訳ではありません。でも2歳上の兄が古墳なんか好きな人で、遊びに来たら必ず「豊和、古墳見に行こう!」と誘われて。元々興味はあったけど、あちこち見ているうちに更に関心が深まりました。
変な話ですが、耳成山を見た時に、これは人工の山だなと直感が走りました。それで書いた本が『大和に眠る太陽の都』です。この本の、耳成山と畝傍山と天香久山が二等辺三角形になっていて、底辺の垂直二等分線を延長すると三輪山と忌部山に行き着く、というのは僕の発見です。地図に線を引いているうちに気づきました。当時、僕が勤めていた大学(京都芸術短期大学)にいた建築家の鈴木盛也さんが図形に詳しい人で、「渡辺さん、これはピタゴラスの整数三角形だ」と指摘されて、色々なことがばっと広がっていったんです。

Q.RIA設立者の山口文象さんとの思い出について
A.中谷礼仁さんの本(※)に書いてありますけど、山口さんとの思い出はいっぱいあるね。あの本を作っている時は昔のことを思い出して楽しかったなあ。
先生に変なことを言ったらね、辞めろって言うから、物を片付け始めたの。そしたら「おい、何してるんだ」って。「辞めろと言われたから片付けてます」って言ったら、「辞めろと言われて辞める馬鹿がどこにいる!」って。僕は何とかなると思っていたから、本当に辞めるつもりだったんですよ。でも即座に言われた。
※渡辺豊和著『文象先生のころ毛綱モンちゃんのころ ―山口文象先生 毛綱モン太覚書』

Q.交流のあった関西の建築家について
A.1990年頃には、僕と安藤(忠雄)が中心になって色々なことをやっていました。一心寺の高口恭行さんや大島哲蔵さんなんかと集まってね。関西には出江(寛)さんもいたしね。出江さんは大分年上だから親しく付き合った訳ではありませんけれど、安藤や高口とは年が近いですからね。
安藤さんと知り合ったのは、僕がまだ事務所を構える前、3年ほど「都市問題経営研究所」にいた1970年頃です。事務所に安藤さんが僕を訪ねて来たんですよ。どうして僕のことを知っていたのかわからないけど、もしかしたら、建築士会の機関紙「ひろば」の編集委員をやっていたから、それで知ったのかも知れない。その後、僕が芝川ビルにいた時も時々来ていましたよ。
安藤さんは建築学科を出ていないから、初めの頃は僕に色々と聞きに来ていました。例えば「新建築」に掲載された建築について「どう思いますか?」とかね。彼は人懐っこいもん。そうやって色々な人に聞いて、勉強したのだと思います。独学ですよね、立派なものです。
建築家として交流が深かったのは、毛綱毅曠です。彼とはRIA時代からだもん。毛綱はすごいんだ。RIAの大阪事務所にやってきてね、「トヨさん(渡辺氏のこと)、こんな事務所すぐ辞めろよ。やってること下らないよ」って大きな声で言うんだ。あれはもうすごい。それで誰ひとり怒らないんだ。がっくりした奴もいない。みんな、今のRIAはつまらんと思っているところがあったからね。でも僕はRIAは好きでした。6年いましたもん。

Q.尊敬する建築家について
A.若い頃は白井晟一ですね。何ていうか、皆さん同じようなことを言うけれど、元々哲学をやっていた人ですからね。他の建築家とは建築の捉え方が違うんです。工学的じゃないんですよ。僕はあまり工学的なのは好きじゃないんです。もともと文学者になりたかったからね。
でも今になるとね、やはり日本で丹下(健三)さんはすごいね。若い頃は反発しましたけど、やはり丹下さんはすごいなと思います。造形力が抜群だもん。都庁舎でもそうじゃない。代々木オリンピック体育館とかね。今は白井さんよりも、寧ろ丹下さんの方がすごいと思っています。
白井さんはね、晩年はあまり好きじゃないんです。ちょっと何ていうか…ぶりっ子になっちゃってね。(親和銀行)懐霄館とかね。あれは良くないですわ。見に行ったんですけどね、これはだめだ!と思ったもん。第1期はいいんですが、第2期になるとだめなんですね。評価されることを意識して作っている。

Q.お弟子さんについて
A.一番多い時でも6人くらいでしたから、トータルで15-6人くらいじゃないかな。
京都の大学で教えるようになったきっかけはね、京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)の建築学科から依頼されて講演したんですよ。それを理事長(徳山詳直氏)が聞いていたらしくて、「あいつをうちの大学の先生にしろ」って。いい理事長でした。非常に仲が良かったですよ。息子さん(徳山豊氏)も実に優秀で、度胸もあるし、頭もいいし、僕は息子さんも好きでしたよ。

【2021年3月18日 於・「餓鬼の舎」(渡辺豊和氏自邸)】

【聞き手】※五十音順、敬称略
笠原一人(京都工芸繊維大学デザイン・建築学系 助教)
加嶋章博(摂南大学理工学部建築学科 学科長・教授)
髙岡伸一(建築家・近畿大学建築学部 准教授)
三木学(文筆家)
星野幸世、川嵜千代(千島土地㈱)



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