芝川ビル「建物語」

芝蘭社家政学園の思い出3

先日、思いもかけず芝蘭社家政学園卒業生の方からお話を伺う機会に恵まれました。

芝蘭社での思い出をお話し下さったのは、1916(大正5)年のお生まれで、今年104歳になられる上品なご婦人です。金蘭会高等女学校をご卒業された後、1歳年上の従妹が通っておられた芝蘭社に入学され、1940(昭和15)年にご結婚のために退園されるまで、1年半ほど通われました。

芝蘭社では、好きな科目を選ぶ授業スタイルで、和裁と料理を受講されました。和裁は、ご年配の大塚先生と、そのお手伝いをされていた鹿谷先生がご担当されていたとのこと。料理は西洋料理で、芝川ビルの地下に大きな寸胴鍋がずらりと並び、それは立派なものだったそうです。ホワイトソースの練り方から教わり、ひと苦労して仕上げたことを覚えているとお話し下さいました。

ご結婚後、ご家族のために作られた芝蘭社で学んだ西洋料理のことをお子様方はよく覚えておられ、後に何度も、「お母さんのお料理、おいしかった!」と言ってくれたのだけど、作った方は何を作ったか、全く覚えていなくて、と懐かしそうに笑っておられましたが、ご子息は、「母は、大阪朝日ビルのレストラン「アラスカ」で食事をした折にも、飯田料理長(「アラスカ」初代料理長の飯田進三郎氏。初代支配人の望月豊作氏がお父様のゴルフ仲間だった関係で、よく食事をしに行くようになり、飯田氏とも親しくなられたそうです。)に色々と料理のコツを教わって、探求心を持って料理していました。」とお話し下さいました。

芝蘭社の創立記念日は6月半ばで、その頃には毎年、生徒達による演奏会が催されたそうです。生徒達は皆、訪問着を着て参加されたとのこと。当社に当時のプログラムが残っていますが、華やかな着物姿のお嬢様方が一同に会す演奏会は、どんなにか華やかだったことでしょう...。当時にタイムスリップして覗いてみたい気持ちになります。

芝蘭社の先生方は、皆さん、着物に帯をお太鼓に結び、「~あそばせ」ととても美しい言葉遣いで生徒に接しておられたとのこと。ビルの前で、恰幅の良い佐瀬さん(芝蘭社を担当した芝川店店員の佐瀬憲治)が葉巻を持って、にこやかに生徒達をお出迎え下さったことが懐かしい、と仰っておられました。

ご実家は網島にあり、休校日である日曜日以外、毎日、バスで芝蘭社に通われました。当時の網島には、藤田邸をはじめとする豪邸が並び、夕刻、しーんと静まり返る邸宅街を歩いて下校するがとても怖くて、慌てて帰宅されていたそうです。

お父様は貿易業を営んでおられ、ご自宅の庭には、お父様のお仕事の関係の「孔雀」がいて、ご友人に「羽根が落ちたら頂戴」と頼まれたこともあったとか。とてもハイカラなお家で、三越のそばの洋服店で仕立ててもらった洋服を着て、輸入食品店で舶来の缶入りキャンディーを買ってもらって...と贅沢な生活をさせてもらっていたけれど、当時はそれが普通のことかと思っていたと仰っておられました。

8人姉妹の末っ子で、8歳の時にお父様、翌年にお母様を相次いで亡くされ、その後は婿養子をとられた一番上のお姉様がお母様代わりとなられたとのこと。ご結婚後は、婚家で大変なご苦労をされたそうですが、そんなことを微塵も感じさせない、たおやかで素敵な女性でした。

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ご寄贈いただいた芝蘭社家政学園の帯留め。紫の地に蘭の花があしらわれています。入学の際にいただけるもので、折々につけて登校されたそうです。


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